稲垣吾郎主演『No.9』感想
東京国際フォーラムCで行われた「No.9」の初日(12月21日)と東京千秋楽(12月31日)へ行ってきました。本当は初日の後にも感想を書いていたのですが、圧倒されたまま千秋楽の日になってしまいました。初日と千秋楽)で座席が1列しか変わらずほぼ同じ位置だったので、見え方は基本変わっていません。
「自分勝手な人なのに、愛する人には献身的になる、それも苦しそうに」について考えてみた
初日に見たとき、劇中の「自分勝手なのに、愛した相手には極端に献身的になる。それも苦しそうに」(正確ではないですがそういった言い回し)という台詞が耳に残りました。2018年に見たときは、ベートーヴェンは母に…親に守って欲しかったのではないかという感想だったのですが、今回改めてみて感じたのは、彼は母親に対して「罪悪感」を持っていたのではないかということです。明確には述べられていませんが、彼がハイドンに師事するために父の元を離れたとき、母の危篤が原因で帰郷したという話が出てきます。そして、結局死に目に会えなかったと。
あれだけ身内を守りたいと思う人が、果たして病床の母親を置いていくだろうかという疑問。Wikiを見る限り、肺結核で亡くなったということで夫のDVによるものではなさそうですが、日常的に暴力というストレスにさらされていたのだとしたら、そこから病気になっていくことはあり得ると思います。酒飲みで、収入も疎らだったとのことで、医療にもかかれなかったのかも。その後、父を見捨て、弟達を連れ出しているのを見ると、「自分が早く音楽家として自立していれば、暴力的な父親から母親を助けられて病床のままにさせなかった」という思いがあるのではないかと感じました。母親を守れなかった、死に目に間に合わなかったという罪悪感が、弟達への過干渉や、度重なるヨセフィーヌへの金銭援助へ繋がるのではないかと。ヨセフィーヌは貴族であって、彼女と結婚できれば、父親のいう「何者にもなれない」というところからの、「貴族であっても自分を選んでくれた」というわかりやすいトロフィーにもなり、彼が求めていた「貴族と平民が平等な世界の実現」にもなります。その上で、ヨセフィーヌが子供を4人も抱えて金策に困っているのを助けるのは、「愛した人だから、わかりやすく不幸になる場所から抜け出してほしい。母のようになってほしくない」という思いなのではないかと感じました。ある意味、ヨセフィーヌの存在は、彼にとって乗り越えなければいけない壁の象徴なのかなと。また、「不幸な結婚から救えず、母を亡くした」ことへの後悔が、弟達の結婚に過干渉になり、甥の教育にも必死になるのでしょう。パンフを読んだ限り、甥の母親はあまり評判が良くなかったようですし。その罪悪感と後悔こそが、「苦しそうに献身的になる」理由な気がしました。
耳鳴りと交響楽第一番で始まり、鼓動と交響楽第九番で終わる意味
今回、キャストの入れ替えもあったそうですが、一番印象が変わったのは、変更されたキャストよりも誰よりも、剛力彩芽でした。鼓動を聞かせるシーンの母性、包容力がパワーアップした気がしました。ベートーヴェンにとっては、自分のことを理解するということは、自分の音楽を理解してくれること。ヨセフィーヌはある意味、コンプレックスのシンボルだったのに対して、マリア(剛力彩芽)、そしてヴィクトル(長谷川初範)が、彼の音楽の理解者だったと思います。マリアの姉でピアノ職人のナネッテも彼を支える発言をしますが、深く彼の音楽を理解し、幾度となく訪れる幸せの絶頂から不幸のどん底へ、そして立ち上がるという流れの中で、彼にとって支えとなる言葉をピンポイントで言えていたのは、マリアとヴィクトルだったと思います。耳が全く聞こえなくなってしまってからのベートーヴェンがゆっくりと狂っていき、現実に戻ってきた瞬間。直接的に彼の目を覚まさせたのは甥である彼の事件と父親そっくりの医者ですが、その後、真っ白になった彼が自我を取り戻せたのは、マリアとそしてヴィクトルの力が大きかったように思いました。ヴィクトルはその場にいなかったけれど、氷を少しずつ溶かすように、ある意味「理想の父親のような」役割を果たしていた気がします。ナポレオンのテーマ曲なんて要らなかったと謝罪することも含め。マリアが鼓動を聞かせるシーンの話に戻りますが、ここのベートーヴェン(稲垣吾郎)の表情は、本当に一つ一つの音を噛みしめているようで感動しました。マリアの全てを受け入れている表情も。とても柔らかで、包容力があって、ベートーヴェンが人もまた楽器であるというのを受け入れ、更に音楽に還元していこうとする道筋に導く説得力がありました。以前もそれなりに説得力はありましたが、稲垣吾郎演じるベートーヴェンの凄みと対極にあるすごさを感じずにはいられませんでした。
冒頭が耳鳴り(自分の中だけの音)と1番から始まり、ラストが鼓動(他人と共鳴する音)と9番。そして「喜びの歌」。まさに、ベートーヴェン自身が解放され、ある意味、父親の悪いところとそっくりな所のあるフリッツ(自分が優位であると感じたときは良いが、嫉妬を感じてからは横暴)をも許せるようになることで、音楽で父親の幻影とコンプレックスという怪物を屈服させた瞬間を意味するものでもでもあったのではないでしょうか。案外、フリッツも嫉妬から解放されているかもしれないという希望も持てました。ああ、そういう意味では、ナネッテとわかり合えなかったのは、ナネッテはベートーヴェンを「音楽という怪物と戦う同志」としていましたが、ベートーヴェンにとって音楽は「自分を苦しめるものと戦うための武器であり友人」だったのではないでしょうか。ナネッテの発言でその違いがわかったからこそ、ヨセフィーヌに対してのような、未練を引きずるということがなかったのではないかと、そんな気がします。
役者陣が本当にすごい
剛力彩芽の凄みについては前段に書いたので省きますが、他にもフリッツ(深見元基)、ベートーヴェンの父親と医師ヨハンの二役(羽場裕一)、ヴィクトル(長谷川初範)も、それぞれに迫力がありました。フリッツは、ベートーヴェンがフランス兵を音楽の力で圧倒したときの表情が。どこか嬉しそうでどこか悔しそうなのがはっきりとわかる表情でしたし、羽場さんは医師の格好のまま妄想内の父に切り替わっても、本当に父親に見えてくる。同じ人だからではなく、完全に服装が同じ異なる人としてそこに存在していて。ヴィクトルも胡散臭いようでいて、ベートーヴェンに残す言葉の一つ一つに、父親のような愛情を感じずにはいられませんでした。
そしてベートーヴェン(稲垣吾郎)。休憩を挟む舞台ではあるものの、最初から最後までものすごいエネルギーでした。これは2018年のときもそう感じたのですが、今回は更に凄みが増していました。以前あった演出でベートーヴェンが徐々に年齢を重ねていくのがわかる演出がありました。今回はその演出はなくなっていましたが、だからこそ、客席側からは甥のカールが年齢を重ねているのに彼が気づいていないというのは明確ではなく、でも、どこか違和感を感じているところでの「ベートーヴェンにだけは、甥が小さいままに見えていた」となるわけで、そこから前述の「鼓動」のシーンに至るまでが、納得感が増したように思いました。今回の彼の演技に対しては、まさに「言葉を失う」というのがぴったりで、感動とか共感とかではなく、ただただ、迸るエネルギーを浴び続け、その迫力と説得力にこちらがひれ伏したくなるベートーヴェンでした。上手く言えませんが、安易に共感することは許されないような感じ。彼の演じるベートーヴェンだからこそ、「運命」のようなすさまじく激しい出だしも、「エリーゼのために」のような優しい曲も両立出来るのだという説得力がありました。
「喜びの歌」が完成したのは、ベートーヴェンが54歳のときの曲だそうです。稲垣吾郎の年齢は現在51歳。あと3年後、彼がその年齢になったときにもぜひ(勿論その前もですが)再演して欲しいと心から想いました。きっと更に説得力が増し、こちらの安易な言葉など全て吹っ飛ばしてしまう演技に磨きがかかったものが見られると確信していますし、それがとても楽しみです。

