映画・曲・本の感想

『ホ・オポノポノ』と『もう、怒らない』

昨年の11月頃でしょうか。ある方から『ホ・オポノポノ』を勧められました。
それから本を買って読み、ホ・オポノポノ曰くの「ごめんなさい」「許してください」「愛してます」「ありがとう」を繰り返すというのをやってみたんです。
それなりに効果はありました…が。
一つだけどうにも腑に落ちないところがありました。
「ありがとう」って思ってもないことに「ありがとう」って言えない。
本に載っている体験談は、確かにいいことだったのだろうけれど、(本に掲載されていたように)DVにあおうとアル中にあおうとその4つを繰り返し言うというのは、私には出来ないだろうなというのが直感。
それから「クリーニング」という言葉も、イマイチ自分にフィットしなかったんです。

全ての出来事は宇宙にある記憶を、自分のウニヒピリが再生しているもの
だからウニヒピリに向かって4つの言葉を繰り返し、記憶の再生を止めて浄化したらいい。
繰り返される記憶は、浄化が終われば再生されなくなる…と。
縁のなかった出会いもクリーニング、何もかもクリーニング。
では、大切な友人との出会いも、そこで紡がれた大切な思い出も全て浄化すべきものなの?
何もかもが自分が招いたという考え方は悪くないけれど、まるで全ての記憶が悪しき者に聞こえない?

教えてくれた人にその質問もしてみましたが、私は理解出来てないとのことでした。
きっとそうなのでしょうね。
でも、あるときからやればやるほど、辛くなってしまったんです。

タツコ・マーティンさんの「夜眠るときに、明日のいいことを思い浮かべてありがとうと言うと、いいことが叶う」というのは、同じ「ありがとう」でもわかるんです。「お礼の先払い」だとしても(笑)
でも、いいことを思い浮かべさせてくれる日に感謝って考えられるじゃないですか。

でも、辛いことがあって、その辛いことを思い返したときに「ありがとう」とは私は思えなかった。
だからなんだか苦しかった。

ただ、考え方は中学・高校時代に学んだ仏教とよく似ている気がしたんです。
なので、「イヤな自分とサヨナラする方法」がたまたまお坊さんが書いたこともあり、小池龍之介さんの本を沢山読んでみました。

「考えない練習」の中に、「日本に蔓延しているありがとう病は、ありがたくもないことにありがとうという点で、自分に嘘をついてることになり、嘘をつくことで体調が悪くなる」というような一説があって、もの凄く納得。
ああ、私の違和感はここにあったんだと。だから苦しかったんだと。

自分の潜在意識を慰めてあげるという意味ではいいと思うんです。
それはタツコ・マーティンさんの本の中にも「トラウマを癒す方法」として載っているし、小池さんの本にも似たようなことは載っています。

ただ、自分自身が癒されるには大きな出来事について、いきなり4つの言葉を唱えるのは敷居が高すぎると個人的には思うのです。
「もう、怒らない」の中では、怒るまでのプロセスを分解して書いてあって。
怒る前に止める方法がありました。
いわば、記憶の再生というものがあるのなら、その再生自体を止めてしまうってことです。
私は寧ろ、こっちで楽になりました。

私はどうしても、イヤなことを繰り返し思い返して傷つく癖があるので、ホ・オポノポノのように何度も再生するのを許してしまうと、その分、テンションが下がっていくんですね。
だから、イヤなことを思い出したり、イヤな目にあったときに「ありがとう」とは言わずに、「自分も相手も穏やかでありますように」と祈るということのほうが、やっぱり合っているかなと。

最近、またホ・オポノポノを読み返してみました。
多分ね、言ってることは皆一緒なんだと思いました。
特に、「怒らないこと」という本を読んだ後だけに、仏教の長老とこのホ・オポノポノの伝道師には共通点があると。
要するに自分が穏やかにいれば、あるべきものがあるべきところにあることが解って、周りもまた癒すことができるってことなんですよね。もの凄く抽象化してしまえば。

ただ、それぞれ少しずつやり方が違っていて、合う・合わないが存在するってことなんだろうなと。

私は私なりに、それぞれのいいところをとって、自分に合うスタイルを確立したいと思います。

Morten Harket.jp (http://www.morten-harket.jp/)の中の人。 二児の母で、フルタイム勤務しつつ、ノルウェー語の勉強をしています。 現在、NORLAからサポートを受け、ノルウェー語の詩の翻訳を実施中。

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