映画・曲・本の感想

『直心是我師 自分らしく生きる禅語45』

手に入れたのは5年ほど前。読み終えたのも一月ほど前なんですが、これはまず手に入れた経緯から書かねばなりません。
2007年6月。女子校時代の先生の訃報をmixiのコミュで知りました。
私の学校は仏教校ですから、毎日お経を読みます。
その中で、ひときわお経が上手くレコード(時代が解りますね)を出してるという噂の先生がいました。
それが、この渡會先生になります。
先生との出会いは中学1年のとき。彼が学年付きだったのです。たまたま、サマースクールのバスで隣になったら、少々困るくらい喋る。
生麦を通れば「ここが生麦事件の…で、あそこがビール工場で…」とか。
そのサマースクールでは、先生の話をきいてたら他のクラスメイトと話せない状態に(笑)

それ以来、廊下で会うと話しかけられてしかも話がながいので、一時は逃げ回ってました。(部活に遅刻するから)
それでも、いつも笑顔で話かけてくる人でした。周りからは、あなた相当すかれてるよねと言われたことも。
学年付きだったのは中1の時だけで、その後高校を卒業するまでは同じ学年にはならなかったけど。

さて、そんなとっても身近なお兄さん的先生の訃報。
学校が付属しているお寺にいき、お葬式に出ました。周りの人は皆驚いていて、新しい本を書いたばかりだとか、次の本の構想を練っていたとか、いろんなネットワークに顔を出して…なんて話をしていました。

それから暫くして、この本が届きました。正直、あけるには私には重く。
玄関先の棚に箱ごと入れたままになっていました。
それが、去年。断捨離をして整理していたところ、目の前に現れました。
まるで「今、読め」と言われてるかのように。

それでも、なんか反抗的な気持ちもあり、少し読んでは本棚に戻し…というのを繰り返していました。
漸く読めたのがつい最近になります。

凄く薄い本なんですが、先生を知ってるだけに一つ一つの項目を読むのに時間がかかりました。
一つ一つの項目だって3ページ程度なのにね。

小池氏の著書は割と現代的に書かれているから読みやすいですし、スマナサーラ氏の著書は、学生時代老師様のお話を聞いたときのような感覚で、「習う」という雰囲気で読めます。
楽なんです。

でも、この本は違う。読んでる最中に、奥付をみたら2007年3月。
つまり、これこそ彼の遺作なのです。
それに気がついたら、余計に一文字一文字真剣に読まなくてはいけない気がして。

前置きが長くなりましたが…
とても解りやすい本でした。
先生の好きな禅語と、その理由や意味が書かれていて一つ一つがとても解りやすく心にしみました。
先生が笑顔で説明してくれているかのようでした。

個人的にとても心に残ったのは、仏教での最大の難関
『無』
のところ。
実のところ、学生時代も小池氏の著書を読んでも、スマナサーラ氏の著書を読んでもこの「無」とか「空」っていうものだけはどうしても理解できなかったんです。

「宇宙が私であって、私が宇宙である」とかね
なに、その不思議な言葉はって感じで。

無とは『決まった相を持たない何にでもなれる創造的な自己』と、先生は書いています。
つまり…自分を型にはめないからこそ(自分で自分をも、他人をも決めつけないからこそ)何にでもなれると。
これを読んで漸く理解しました。

あと、「非思量」の「迷ったら考えない」というのも印象的でした。
凄くシンプルで解りやすいですよね。迷ったところで移動したら、余計迷子になるわけで…。
そうかあ…と。
これまた、小池氏の著書やスマナサーラ氏の著書でも「逃げれば逃げるほど追い詰められる。肩すかしすれば、突進してきたものは過ぎていく」みたいな言い方で載ってますが。

私は前提なことがあるので、読むのに時間がかかってしまいましたが、特に思い入れがなければ、普通に解りやすく著者の少年時代の話も入っていて面白いと思います。
開いたところを読んでみるという方法もありなのかも。

Morten Harket.jp (http://www.morten-harket.jp/)の中の人。 二児の母で、フルタイム勤務しつつ、ノルウェー語の勉強をしています。 現在、NORLAからサポートを受け、ノルウェー語の詩の翻訳を実施中。

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