日常/心

「日本に八百万の神がいることの幸福について」を読んで思ったこと

「日本に八百万(やおよろず)の神がいることの幸福について」という記事を読んだ。
少し前から、ノルウェー語のレッスンでキリスト教の話が出たり、自分の持ってるマッタ・ルイーセ王女の天使の本の話を通して、「一つの神しか許されない文化っって大変だなあ」と漠然と思っていた。
妖精がいたり、天使を信じたりすると異端になっちゃうところがね。

それと同時に、そのキリスト教が国教になっていく過程を読んで、「あれ?」と思った。
そういえば、日本では全く逆で、「どれか一つに絞る」という圧力は悉く失敗しているのではないかと。
儒教しかり、仏教しかり…。寧ろ、どれか一つに絞ることに、ものすごく抵抗感を示しているのではないかと。
勢いがある新しく入ってきた宗教はいったん弾圧され、そのうちに、なんとなーく日本の八百万の神様の中に溶け込んでしまう。
少なくとも私の認識では。

そこで、上にある記事を読んであれ?と再び思ったのだ。
もしかして…、日本は多様性を受け入れる文化なのは間違いないけど、突出した何かは、その「唯一神の文化ではないからこそ」受け入れられないのでは…と。
だって、唯一神がいるってことは「誰かが圧倒的な力を持っていることを認める」文化だ。
そして、どうあがいても神様にはかなわないから、それぞれが圧倒的な力を持っていたとしても、逆に脅威にはならないのかもしれない。
カリスマを認めやすい文化なんじゃないだろうか。

日本の場合、確かに本来であれば、多様性を認められる精神を持っているはずだ。

バブル期までは、国民全部が中流意識を持ってると言われ、「世界で唯一成功した社会主義国」と揶揄されたこともあった。
医者とか一部の「億万長者」は別として、ごく身近には突出して凄い人はいない、四人家族のモデルタイプ(父母こども2人)でなんとなく算盤とか習っててピアノ習ってて…みたいなのが多かった。そのタイプに合ってない共働きとかは肩身が狭い時代でもあったと思うけど、兎に角、ほぼ『中流』だと思えていた人ばかりだったから、社会問題はいっぱいあったし、虐めもあったけど、全体としてはもしかしたら今より幸福度は高かったのかもと思う。

その「雰囲気」が壊れたたのはバブルが崩壊してからだと思う。90年代中頃「勝ち組・負け組」という言葉が流行始めた。
そして、自分の記憶が確かなら、この頃から出生率も低下の一途を辿っていったように思う。

なんとなく思うのは、このあたりから「みんな中流」の意識が崩れて、自分を分類するようになってしまい、そこから殺伐とし始めたんじゃないかと思う。
子供の頃、祖母は誰にでも守護霊がいる(ご先祖様がついてる)と言っていた。
今だったら「スピリチュアル」とあえて言われちゃうようなことだけど、少なくとも70年代とか80年代って、そういう考え方に眉をひそめる人はそんなにいなかったというか、普通に悪い事をしたら罰が当たるとか嘘をついたら閻魔様に舌抜かれるとかいうのが家庭教育に根付いてたような気がする。

それって、多様性であると同時に、石ころにも山にも川にも海にも花にも神様がいるように、自分にも見ている神様がいるという考え方だと思うから、一人の突出した人はいないかもしれないけど、誰もが何かに突出してる可能性を認めているはずだったと思う。でも、「勝ち組・負け組」という言葉が流行初めて、「誰かと比べてどうだから」というのが出てきてから、本来の「誰もが一緒に居る八百万の神様」を身近に感じることが少なくなって、ただ、「突出した誰かだけを崇拝するのは気持ちが悪い」というのだけが残った気がする。勿論、根付いてる文化として、あちこちにいる神様を信じられるというのも残っているけど。
人間関係の部分では、その部分だけが色濃く残ってしまったんじゃないだろうか。

先日、テレビで「妊婦バッチ」がネットで叩かれてるからという理由でつけない人が増えてるというようなことを報道していた。
ゲストの一人は、産婦人科で貰ったが「出来るだけ目立たない場所につけたほうがいい」と言われたのだそうだ。
曰く「子供が出来ない人を傷つけるから」。
出生率の低下が叫ばれる中で、公園では静かにするようにという張り紙が張り巡らされるところも増えているというのを聞くにつけ、言い方は悪いけど、ついに「子供を持つことは他の人とは違う突出したこと」になってしまったのだと思う。
これは何度か書いてる気がするけど、出産費用は一度に多額の費用が必要だ。一時的にしても。
出産のための一時給付金や、自治体による補助金(補助チケット)もあるけど、それって、出産に関わる費用の恐らく1/4にもならない。少なくとも自分の時は役に立たなかった。
自分の住む場所(東京)ではなく、会社の近くの病院(神奈川県)を選択したから。東京都の人の補助券は東京都でしか使えない。もう、こうなってくると子供は「贅沢」な対象なのだ。多分。だって、一時的にでも入院するのに80万くらい必要になるからね。
90年代以降、特に消費税が入ってから物の物価はぐーんとあがり、たとえば、ジュース一本は100円が普通だったのが、今は160円とかだったりする。消費税があがればもっとあがると思う。でも、じゃあ、ジュースが1.6倍なら給与水準が1.6倍になっているかというと、そんなことはないと思う。

厚生労働省の統計によると、平成9年(1997年)の大卒女性の初任給平均は18万6000円、男性19万3000円
この時の消費税率は5%。自販機のジュースが110円で買えた。

そして現在はというと、大卒女性平均19万7200円、男性20万2900円。どうみても1.6倍になってない。(話とはずれるけど今の女性の初任給平均が約20年前の男性とほぼ同じかと思うとそれはそれで腹が立つ。差がありすぎるという意味で)
130円の缶と平成9年の110円の比較にしたとしても缶の値段は1.2倍だけど、平均初任給は1.1倍にすらなってない。
追いついてない。

給与はあがらない、でも年金負担率も増えて、消費税も増えて、税金とか強制的に持っていかれる分だけが増え続ければ、そりゃあ、「余裕」なんてなくなるし、「勝ち負け」という概念も出てくるというもの。
妊婦バッチもそうだけど、facebookの結婚式の写真ですら「テロ」と呼んでしまうのも、なんでも比較して勝ち負けにしてしまうからこそ、自分を不幸に感じる最たるものだと思う。
高校時代、弓道部の校内試合の優勝決定戦で、同期の子とサドンデスに突入したことがある。結局私が勝ったのだけれど、「私がどれだけ勝ちたかったか、あなたにはわからないんでしょ」と号泣されて非常に面倒に感じたことを思い出す。
彼女は私に負けたことで不幸だろうか?他の子には勝っているのに。
私は、嬉しいのに喜べない自分のほうが不幸に感じた。(当時)
最近の何か言うと「そうじゃない人がかわいそうでしょ!」という風潮は、その頃のことをやたら思い出させてくれる。

「他人の幸せ」は所詮、「他人の幸せ」であって、「自分の不幸」とは繋がらない。
試合の結果だったとしても、負けたら悔しいけど、試合に出られるまでの選抜もあれば、2位だったからといって、誰よりも不幸ということにはならない。だけど、なんか最近のニュースとか見てると、そのあたりのことが忘れ去られているような気がする。

最初の記事に戻るけど、日本には八百万の神様がいて、何かにつけて味方をしてくれる。
そう少しでも思えたら、妊婦マークを敵視するような悲しい物言いはなくなると思うんだけどな。

 

Morten Harket.jp (http://www.morten-harket.jp/)の中の人。 二児の母で、フルタイム勤務しつつ、ノルウェー語の勉強をしています。 現在、NORLAからサポートを受け、ノルウェー語の詩の翻訳を実施中。

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