ノルウェー語,  日常/心

意味を持つということ

土曜日の講座が終わってからと、日曜日にかけて、モートンの動画に字幕を入れていました。
facebookの友人からVGTVやNRKの動画を保存する方法を教えて貰い、それに、以前訳した記事から文字を入れて限定公開したあとは、以前から何度も挑戦している動画の「聞き取り&字幕入れ」をしていました。

この動画、去年のこの時期だったかもうちょっと後くらいから始めて、まだ終わってないんですが、面白いことに、以前見たときよりも、聞き取れる場所が増えていました。

2012年にノルウェーへ行ったとき、2010年にはわからなかった単語がわかることで、街のポスターや看板が、「文字列や図版」から「意味をもったもの」になりました。「あ、これは靴屋さんなんだ」とか、「コンサートがどこそこであるんだ」とか。

昨日していた動画の字幕入れも、それと似たようなことが起きました。
とはいえ、「文字」ではなく「音」なので、もう少し様相が違うのですが。

「聞こえていた音」が、突如、ある箇所だけ「意味を持つ音」に変わる。
よくあるクイズ番組の「頭の体操」系で、画像の一部をちょっとずつ見せながら正解に近づいていくやつ。あれを音でやられている、という感じです。
「全体的に靄がかかってる」⇒「一部の単語が聞こえる」⇒「文そのものが聞き取れる」⇒「文章の意味がわかる」

こんな感じ。文を聞き取れても、語彙が少ないが故に意味がとれなかった箇所についても、大分意味をとれるようになってきていました。
勿論、中には「靄」から「一部の単語がわかった」になったところもあれば、「文は聞き取れたけど、意味がわからない」箇所も、何言ってるか未だに聞き取りにくいところもあります。それでも、以前に比べたら遙かにわかる箇所が増えているのです。
これは、かなり嬉しいことです。

ところで、私は以前、英会話を習っていました。学生時代のヒアリングテストも、良い方でした。でも、じゃあa-haの英語の動画を見せられてわかるかというと、わからない箇所のほうが多いです。(多分、ノルウェー語のものよりも)
なんでかなあと思っていたのですが、英語に対する心理的なプレッシャーが大きいこと(つまり身構える)が原因な気がします。

たとえば、カフェレッスンをしてるとき、周りの目は(今は)全く気になりません。
最初のうちは、先生とノルウェー語で話してるだけで、「え」っていう顔をする人に気づいたりして、緊張に輪をかけていました。
それでも、ハルダンゲルクラブのノルウェー語教室の最初に、ノルウェー語で話しかけられたときは、頭が真っ白になりました。でも、先生と他の先生が話している内容はわかるんです。
つまり、身構えるほどに、理解できる文章からただの音、もしくは音ですらなくなっていくのだと思います。

これって、日常でも同じだなあと思うのです。
日本語だから全部通じてあたり前と思っても、「察しろ」とかっていう「手抜き」が入っていたり、会話の一部を切り抜いたことを伝え聞いて都合の良い解釈をされていたり、していたり。
相手とわかり合いたいと思っていても、その思いが強すぎると「身構える」ことになってしまって、頭が真っ白になって、言葉が入ってこない。
入ってこないと、前後の文脈のない、「会話の一部を切り抜いたもの」になってしまい、意味を取りにくくなったりしますよね。
うん、つまり、自分が身構えていたり、相手が身構えているうちは、まともな話し合いはできないとも言えます。
そんな中で、どれだけ言葉を重ねても、意味を持つことはなく、多分、言語の異なる長い動画をみるのと一緒で、余計混乱するだけなのかも。

それにしても、少しずつ全体像が見えてくるという作業は、とても楽しいです。
動画全体がわかるようになるのは、いつになるのかな。まだ前半(12分)の8分程度までなので、先は長い気もしますが、頑張りますv

Morten Harket.jp (http://www.morten-harket.jp/)の中の人。 二児の母で、フルタイム勤務しつつ、ノルウェー語の勉強をしています。 現在、NORLAからサポートを受け、ノルウェー語の詩の翻訳を実施中。

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