最近のノルウェー語:危機一髪はノルウェー語でも危機一髪だった
去年の後半は、本当に自分のノルウェー語の会話能力の駄目っぷりを実感したので、今年に入ってから作文強化に加え、会話の強化もしています。先生に相談したところ、「じゃあレッスン開始から1時間は日本語禁止ね」ってことで。勿論、自習時間では文法の教科書で前置詞を継続してやりつつですかね。作文では基本、教科書に載っていた言い回しをできるだけ使うようにしています。ただこれだと本来の教科書(読む方)の時間が取れないんですけどね。
1月に入ってからこれまでに書いた作文内容としては
最初の「自分の会話能力のなさを実感」の話から、最初に書いたように、会話レッスンというより、会話に日本語挟まないようにするという方向で会話多めにしています。前回はベルばら45周年の話とamazonの話を両方書いていったのですが、ベルばらに時間を取られて、amazonの作文はまた次回に(ベルばらについて結構長く書いたので)
今回のメモ
今回は相当難しかったです。特に「現役時代のように演じる」という部分が。そもそも、宝塚のシステムをノルウェー語で説明するのも難しいんですけど、さすがにずっと同じ先生なので、ヅカのシステムは作文で何度か書いててご存知なんですが(笑)。面白かったのは、集客数が減ってこんままだと存続の危機だというところから、ベルサイユのばらを宝塚でやることになった部分を書いたときに、 en hårsbredd fra~ というのを辞書でみつけて使ったのですが、「このhårsbreddの意味わかる?」と聞かれたことです。hårは髪、breddは長方形の短い方の編をいうそうで、~の状態まで髪の幅分しかない…つまり、危機一髪と同じ発想だったのです。日本語だと「髪の長さほどしかない」になるので、ノルウェー語のほうが危機度が高い気もしますが…、まあ、発想は同じですね。
それともう一つ、「受け入れられる」を私は上記の()がない状態で書いたのですが、評価が必要というのが面白かったです。mottattはそもそも受け取る的な意味なので、社会に出るという時点で既に社会からは「受け入れられている」ので、文脈上、「(宝塚の)ベルばらが受け入れられた」にするには、そこに「評価」が必要だということでした。つまり、受け入れられなかったとするならば、「Det ble ikke mottatt」ではなく、「Det ble dårlig mottatt」としなくてはいけないということですね。興行する、出版する、リリースする…、全てその時点で「受け入れられてる」という考え方は、目から鱗でした。仕事でもなんでも、良い評価じゃないと意味が無いという考えが自分の中にあるんだなと変なところで気がつきました。
前回までのメモとしては「kanは機会があって出来ること、greie、klareは能力があってできること」「sitter tett langsは、ぎゅうぎゅうに座ってる様子(ディズニーのパレード待ちとかですね)」「活動休止する:ta en pause」「孔子 Konfucius」。そういえば、前もJeg spiller pianoと、Jeg kan spille pianoでは、後者のほうが「出来る」ではなくて、前者のほうが普段からピアノを弾いているということになると聞いた気がします。kanにせよ、今回のmottaにせよ、自分がもつその単語のイメージが、本来の意味より強いのかもしれません。こういったことって、語学を勉強しないと気づきにくいことなので、こうやってわかるのはすごく面白いし、楽しいです。
Morten Harket.jp (http://www.morten-harket.jp/)の中の人。
二児の母で、フルタイム勤務しつつ、ノルウェー語の勉強をしています。
現在、NORLAからサポートを受け、ノルウェー語の詩の翻訳を実施中。